雪が降る

 

 

――雪が降る。

白く淡い雪が、音もなく地上へと落ちてくる。

音はあるのかも知れない。だが、あまりにも微かで、この耳にはその幽き音は届かない。

美しく儚い雪は、この手でつかんだと思っても、自らの体温によって跡形もなく消えてしまう。

初めから水であったように、手のひらを冷やし、そして残った水でさえも指の隙間から流れ落ちて、この手には何も残らない。

欲しいと思ったものは全て、この雪のように手のひらからすり抜けていった。

脆く、儚く、胸が震えるほど美しいもの。

何よりも欲しかったけれど、口にすれば崩れ去ってしまいそうで、ただ黙って見つめているしかなかった。

手を伸ばせば消えてしまう、触れれば溶けてしまう。

一瞬の触れ合いだけで満足できるなら、初めから求めるはずがなかった。

「――好きだよ」

心のままに伝えたなら、彼女はどんな顔をするだろう?

「君が欲しいよ」

彼女の白い手が額に触れてくるたびに、胸を走り抜ける甘い痛み。

闇の中で痛みは毒へと変わり、朝を迎えるその時まで、仄暗い葛藤が心を苛み、秘めた決意の翻意を促してくる。

「……君が、好きなんだ」

心の中に日々積りゆく美しい白雪。伝えられないまま、さりとて消し去れないまま、静かに雪の層を重ねていく。

「どうして、愛してしまったんだろう?」

苦しくなるだけだと分かっていたのに。どんなに愛しく思おうとも、この枯れ枝のような腕では彼女を受け止められず、そして守れそうにもなかった。

「嫌だな……どうしてこんな事になっちゃったのかな」

受け入れたはずだった。松本先生に宣告される前から、自分の体の異変は分かっていたし、残り少ないだろう命は近藤さんの為に使おうと決めたはずだった。

それが甘い決意だったと悟るのに、そう時はかからなかった。

体から少しずつ力が抜けていき、朝の目覚めが徐々に曖昧なものとなり、起きている間も気怠くて意識が飛ぶことが増えていった。

思うように動けなくなってから、ようやく自分が心の何処かで治ることを信じていたのだと気づいた。

先行きの短さを想像する裏で、克服し、元のように刀を振るう己を信じていた。

「……馬鹿だな。簡単に治るなら、松本先生があんなに気にかけてくれるはずがないのに」

自分の未来を悟った時、同時に自分の想いが叶わぬことを知った。否、叶えてはいけないことを知った。

「君が僕の世話を申し出てくれた時、本当に嬉しかった」

でも、嬉しいという気持ちを表に出す訳にはいかなかった。本当は、別の誰かに頼むべきだったのだろう。そうすれば、こんなにも切ない想いを抱えなくともすんだのに。

「先生と、僕と……君。三人だけの秘密」

「君は僕を可哀想だと思ってるね。そう、僕は可哀想なんだよ。

だから……傍にいてよ」

静かに落ちてくる雪を眺めながら、自分は今、どんな顔をしているのだろうと思った。

笑ってる?悲しんでいる?それとも怒っているのか。

「分からない。ただ、とても心が痛いよ」

愛しい娘は手を伸ばせば触れられるほど近くにいる。それが嬉しくもあり、切なくもある。雪のように白い肌を見つめながら、その感触を想像することしか許されない。

男の形をしても、彼女の変化は隠し切れない。艷やかな髪も、光を弾く滑らかな肌も、まろやかな線を描く体も。

初めて出逢った時の小さく骨ばった体は、ここ数年の間で女特有の柔らかさを得て、眩しいほど美しくなった。

もう誰もかれも気づいているだろう、彼女が女であることを。

でも、誰もが気づかない振りをしている。大事にして彼女が消えてしまうのが怖いのだ。

だから誰もが疑惑をそっと胸の内に秘めて、男として接している。

「……君は愛されているから」

君の中に、誰もが誰かの面影を重ねている、と声に出さずに呟いた。

「僕も、重ねているのかもしれないね」

愛してくれた白い手。その手の持ち主とはもう何年も会っていない。時折、文が届くが読まずに仕舞い込んだままだ。

その人の名を呼ぼうとしたが、喉の奥に塊が詰まったようになり、結局、口にすることができなかった。

「寂しいな。……とても寒いよ」

誰もが寝静まった時に、こうして部屋を抜けだして一人夜を過ごす。

ぴんと張り詰めた透明な空気。自分以外は存在しないかのようなこの静けさが、疲れてささくれ立った心を優しく慰めてくれる。

寂しいと口にしながらも、この孤独感に親しみを感じているのが可笑しくて、思わず口元を緩めた。

「ああ、よく降るな。明日の朝、きっと驚くだろうな」

頬を赤く染めた彼女が、一面白くなった庭を見せようと僕の部屋へと駆けてくる姿が見えるようだ。

「でも、有難うだなんて言わないよ」

君と僕は近すぎてはいけないんだ、と呟いて、ほんのりと微笑んだ。

「どんなに弱っても、どんなに絶望を感じていても。どうして……君がこんなにも愛しいんだろう」

微笑む君、心配そうに覗きこんでくる君、怒る君、そして眠る僕の頭を撫でてくれる優しい手。

「……ずっと、一緒にいたいよ」

未来を信じられない僕には、望みというものは何と苦いことか。

この苦さは彼女が傍にいてくれる限り消えることはない。

僕は彼女を愛している。胸が痛くなるほど愛している。

体よりも心が痛かった。望みや愛は未来があるからこそ、時があると信じられるからこそ、明るい灯火となるのだと知った。

望みの重さが肩にずっしりとかかり、喘ぐように呼吸をしながら空を見上げた。

空からは止む気配もなく、次から次へと雪が降ってくる。

俯いてしまえば、心が折れてしまうと、無理に顔を上げ続けた。

雪が顔にかかり、頬の上で溶けてそのまま地面へと引かれていく。

幾つも水跡がついて、まるで泣いているようだと思った。

「君が、好きだ」

きっと伝えることのない言葉は、沢山の雪に包まれて静かに消えていった。

余韻が消え去る頃、ふと背後に気配を感じ、小さな足音が静けさを乱すのを怖れるように近づいてくる。

誰が後ろにいるのか確かめたい気がしたが、振り返ればその足音が幻のように消えてしまいそうで振り向けなかった。

足音が背後で止まり、そして細い腕が目の前に現れて、胸の辺りで交差しながら抱きしめてきた。

背中の中程までの小さな体。温かく、柔らかな感触。

この腕を遠ざけるべきだと分かっていた。でも、胸にある細い腕をつかむと、簡単に折れてしまいそうで触れるのが怖かった。

(……言い訳だ)

背中の熱が心を狂わせ、身動きできずに、棒のようにその場に突っ立っていることしかできず、そんな自分を無性に嘲笑いたくなった。

(もう、嫌だ)

愛しい女の温もりが、今の自分には何よりも残酷なものに思えた。

(ああ、いっそ、)

強い衝動に駆られ、喘ぎとも唸りともつかぬ声が漏れた。

(このまま降り続けて……全て覆い尽くして)

二人ごと白い雪に包まれて、何もかも忘れて。

(何もかも、真っ白になって)

そう、全てを無にして。何もかも手放して。

(そして生まれ変われたら……そうなったなら)

あり得べくもない、都合の良い夢。でも、この全てを覆い尽くそうとする白い雪になら、そんな夢を託したくなる。

「そうなったら、いいね」

そう言って、棒のようにかたまった右腕をぎこちなく伸ばして、そっと胸にある小さな手に触れた。その手は雪のように冷たくて、このまま触れていれば溶けてしまいそうだと、そっと彼女の肌から手を離した。